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*戦争と平和

book 20110409 004308

トルストイ - 戦争と平和

  カラマーゾフの兄弟を読んでから 、ロシア文学に尊敬の念を抱き、他のも読もうと心に決めた。
そして分けも分からず、何の予備知識もなしに、有名そうな本をポチッとしてみた。どうでもいいが、本を読むときは予備知識があってはいけないと思う。真っ更な状態で読むのが正しい。一番楽しめる。

さて、それで届いたのがこの「戦争と平和」だったのだけど、もう最初の数ページで読むのが嫌になった。正直、久しぶりに読めない本に出会ったわ、と思った。だって、出だしがこんな感じだからね。

「<ねえ、いかがでございます、公爵。ジェノアもルッカも、ボナパルト家の所有に、領地になってしまったではございませんか。いいえ、わたしあらかじめおことわりしておきますけれど、これが戦争でないとなどとおっしゃって、このうえまだあの反キリスト(ほんとに、わたし、あの男は反キリストだと信じておりますのよ)の、あのいまわしい、恐ろしい所業を弁護などなさるようでしたら、――わたしはもうあなたとのおつきあいをおことわりいたしますわよ、あなたはもうわたしの親友でもないし、あなたがつねづねおっしゃるように、わたしの忠実な僕でもありませんわよ、よろしゅうございますわね>。さあ、どうぞ、ようこそいらしてくださいました。<おやまあ、わたしあなたをびっくりさせてしまったらしゅうございますわね>。さあ、おかけになって、どう(次ページ)

どうですか?続きを読みたくなりますか?
僕は読みたくないですね。

もう固有名詞がさっぱり分からない上に、なにこの<>は?全く解釈の仕方が分からぬまま、文脈に乗りきれない。そして30ページくらい読んで「やっぱ諦めるかこれ…」、と一度撤退しようかと思ったところを踏ん張り抜いて300ページ程我慢して読み進めたらようやく面白くなってきて、全部読めたという具合。
ちなみに300ページ頃に何があるかというと戦争と軍隊の描写が入ってくるんだね。単純に戦争の描写は面白い。これは男だし仕様がない。あと恋愛の描写もエンターテイメント性が高い。ナターシャはひどい娘だ。書名は「戦争と恋愛」が正しいと思う。

さて、予備知識のない僕は読みながら、どうやらこれはナポレオン戦争を背景にした小説らしいとようやく気づく。僕はそれについては「絶好調だったナポレオンが調子こいてロシアにまで攻めたものの、冬将軍によって撃退される」程度の認識だった。しかし、この本を読んだ後には、その歴史観は全く覆される。トルストイは云う

機関車が走っている。あれはどうして動くのかと、きかれる。悪魔が動かしているのだと、百姓が言う。もう一人は、機関車が走るのは、車輪がまわるからだと言う。さらに別な男は、動く原因は、風に流される煙にあると主張する。(中略)しかし、機関車の運動を説明しうる唯一の概念は、目に見える運動に見合う力の概念である。


戦争はナポレオンがロシア遠征を命じたから起きた?それは百姓が機関車の中に悪魔を見るのと同列だ。
外交的な力が働いたから起きた?それは車輪の回転と同じようなものだ。
知識人の影響があった?それは煙だ。副産物に過ぎない。
本質と思われていたものは、どれも本質ではなかったのだ。

トルストイはこうも例える。微分なくして積分なし、と。
どんな大きなものでも、微小な変化の集合なのだと。

自己流に分かりやすく解釈すると要は、歴史とは民族の動きとは、剛体のように単純ではない。つまり、質量と慣性テンソルだけを求めれば容易に計算できるという代物ではないのだ。流体よりも遙かに複雑なこの系は、個々の粒子、つまり関わった全ての人を記録できない限り、見当外れの結果しか得られない。と、云うことなのではないか。
だからトルストイは、登場人物559名、3000ページにも渡る群像劇を、一見詰まらない夜会の出迎えのシーンから始め、愛と憎しみ、家庭と軍隊、友情と裏切り、生と死、理性と情欲、労働と賭博、知識と迷信、信仰と不信仰、貴族と農民、戦争と平和と、あらゆるものを詰め込んでひとつの歴史として提示した。

というわけで、全部読み終えると面白かったな、と思えた。
とはいえ、人間誰しもあらゆることの本質を捉えることなど出来ない。適当に剛体に近似して満足するしかないのも事実。しかし自国の歴史くらいは詳しく知っていたいというものだ。例えば、太平洋戦争をこれだけ巨視的に書いた本があれば是非読みたいが、まあ、ないだろうね。