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*日本興業銀行

book 経済 20130908 135521
日本興業銀行、名前は聞いたことはあるけど実態は知らなかった。子供の頃、自分の町にもあったっけかなあ。
銀行なのにキューピーちゃんがトレードマークで、そこはかとない胡散臭さを醸し出しつつ、名前が日本「興業」銀行ってヤクザのフロント企業みたいだし、とにかく怪しい怪しすぎる。そんな風に子供心に思ってた。

そんな日本興業銀行だが、同行を題材に私の敬愛する高杉良先生が全五部の長編小説を書いていたことに気づき、あの怪しげな銀行に一体どんなドラマが?と思い読んでみたところ、そこには僕の銀行観を根底から覆すような、銀行マンの活き活きとした、あるいは現代からすれば無茶苦茶な活劇が日本の敗戦からの復興とともに描かれていた。

ちょうど今日、2020年の東京オリンピックの開催が決定したが、物語はその56年前の1964年の東京オリンピック開催の前後から始まる。当時、日本はオリンピック景気の反動による深刻な不景気で、企業が次々と倒産し証券不況が訪れていた。

特に山一證券が実質破綻していることがスクープとなり取り付け騒ぎを起こしてしまう。このままでは業績の悪い証券会社が連鎖的に破綻し、日本の証券システム、ひいては金融システム全体が崩壊しかねない非常に危険な状態に陥っていた。

そのような状況で、財界の要請で頭取の中山素平は同期であり元興銀証券部部長、日産化学社長の日高輝を火の車になっている山一に社長として送りこむ。

同時に、山一救済のために日銀氷川寮に極秘裏に大蔵省事務次官、銀行局長、日銀副総裁、興銀頭取中山素平、富士銀行頭取、三菱銀行頭取、そして大蔵大臣田中角栄が集まり、その3行を経由した 日銀特融 が決定する。これらの田中角栄の圧倒的な政治的手腕と的確な処置により金融システムの信頼は回復し高度成長は持続し、日本は世界第2位のGNPに上り詰めるのであるが、そういった国家的判断に興銀は常に関わっていたようだ。

さらに証券不況に対するため、興銀を中心とした日本共同証券の立ち上げも描かれている。これは下落し続ける株価を下支えするために作られた、株の買い上げ機構である。銀行としてはそんなことをやる必要はないし、実際住友銀行頭取は「放漫経営をしていた証券会社を救済する必要があるのか。自己責任の原則に立てば潰れるのが当たり前」と等言っていたようであり、また証券会社からは、救済という面もあるものの銀行が証券業界への影響力を高める心配もあったが、興銀の幹部たちは日本の金融の安定化のために彼らを説得しつつ会社を立ち上げる。

このように興銀は証券不況ひとつをとっても、銀行としての利益追求というより、国益追求のための実行部隊としての色合いが非常に強かったようだ。戦前の第6代総裁結城豊太郎曰く「興銀は質屋ではない。物的価値だけで金を貸すのだったら質屋と同じじゃないか」「担保なんかどうでもいいじゃないか。事業は人なり、何人が経営するかということが一番大事なんだ」。とにかく普通の銀行ではないのである。

もともと日本興業銀行は日露戦争前夜の1902年(連合艦隊旗艦となる戦艦三笠が同年竣工)、重工業推進のために日本興業銀行法によって設立された特殊銀行で、主に金融債を発行して資金を調達していた。いわばB2B専門の国策銀行とも言っても良い。戦中に中島飛行機などに多額の融資を行っていたために、戦後GHQによって戦犯銀行として解体されそうになりそれは回避するものの、普通銀行として生まれ変わることになる。しかしながら、日本に工業を興し育てるという大きな志は特殊銀行の頃のままだった。官僚、政治家、経済界に深く根を張ったまま、一銀行の枠を超え日本の経済の大きなうねりを作っていく。

小説に書かれた興銀が中心となって起きた主な出来事を上げてみると、その影響力の大きさに驚く。

  • 証券不況対策に日本共同証券を立ち上げ
  • 海運業界大再編
    • 今では信じがたいが、官僚や銀行主導でほぼ強制的に主だった海運業者を合併させた
  • 自動車業界再編
    • 日産自動車とプリンス自動車の合併
      • 当時日本一の自動車メーカーの誕生
      • ちなみにスカイラインは日産ではなくプリンスのブランドだった
  • 製鉄業界再編
    • 八幡製鉄と富士製鉄の大合併
      • 世界第二位の新日本製鐵の誕生
  • 化学業界再編
    • 東ソー
  • アラビア石油の設立の幹事

もっとも、日本の銀行というのは元から単なる金貸しとは大きく異る性格を持つ。半沢直樹が「銀行は所詮金貸しですよ」と自らを卑下していたが、実際の日本の大銀行というのは傘下の企業の経営を束ねる旗艦のような存在である。これは戦前の日本において主流であった直接金融が戦時経済体制(俗にいう1940年体制)により消滅し、銀行融資による間接金融が支配的となり、企業は経営において銀行の統制を受けたからだ。このため国は銀行を抑えることで、限られた国力を全て戦争へ回すことができた。それは戦後もしばらく続き、官僚(日銀を含む)は各種規制と認可、銀行の融資を通じて企業を統制し、最適な資源配分を行うことで奇跡的な高度成長を達成した。

その中でも都市銀行の頂点に君臨するのが興銀だったわけだ(さらに上に日銀がいるけど)。興銀が幹事銀行となれば、他の銀行も融資を決定する、合併の人事も斡旋する、ピンチになれば社長を派遣する、そんな輝かしき名門中の名門の銀行、興銀として、この小説は終わる。

しかし興銀はその小説が書かれた10年後にみずほ銀行に吸収合併されてしまう。住専を始めバブルのツケを払いきれず経営が悪化したのが原因だ。また企業も戦中戦後とは異なり社債などの直接金融が可能となってきたため、マクロ的に見れば産業銀行自体の存在価値が失われてしまったとも言える。さらには大蔵省への過剰接待も大きな問題となっていた。MOF担の接待といえば俗に言うノーパンしゃぶしゃぶが有名だが、これは興銀が始めたものらしい。これで官僚との関係も切れてしまったし権威も失墜した。興銀の存在価値が本当に無くなり、惜しむ声もなくその名は合併という形で消えていったのである。

なんというか、その栄枯盛衰がまた考えさせられますな。


参考文献

【時代のリーダー】中山素平・日本興業銀行特別顧問:日経ビジネスオンライン
ゲームメイカー退場-中山素平の功罪を問う
追悼 中山 素平 氏 (元 日本興業銀行頭取)
kichanのトレード日誌: 中山素平氏とその時代
戦後の興銀、中興の祖である中山素平の活躍。
財界の鞍馬天狗はゲームメイカーと呼ばれていた。

日本興業銀行100年の軌跡と証券業務(上)
日本興業銀行100年の軌跡と証券業務(下)

日本興業銀行 - みずほフィナンシャルグループ
日本興業銀行の業績と財務の状況

読書日記:0084_『小説・日本興業銀行』(第1部~第5部)★★★★
内容がかなりまとめてある。

日本興業銀行は何故、投資銀行に脱皮できなかったのか(1)-日本型投資銀行の最適候補だったのに…
【IBJ】日本興業銀行とは何だったのか | ログ速
惜しむ声も多いが、自業自得という話も多い。

「そごう」の拡大路線30年にかげり
中山 素平氏-そごう・興銀問題を語る - ニュース - nikkei BPnet
Web東奥・特集/断面2001 そごう前会長に強制捜査/卑劣、と興銀に怒りあらわ
そごうは借りた金で土地を買い、その土地を担保にまた金を借り土地を買い、というバブル時代特有の錬金術とも言える経営を行っていた。これへ興銀は無責任な貸出を続け、結果そごうグループで3兆近い不良債権を生んでしまった。

《住専》 興銀が大蔵省の支離滅裂行政を法廷で内部告発 - 法と経済のジャーナル
興銀税務訴訟を巡る国税庁の対応について
これは結局興銀が逆転勝訴だし、国税庁が酷いな、と思うけど、そもそも全盛期の中央官僚と太いパイプを持っていた興銀ならこんなゴタゴタは絶対起きなかっただろうね。中央官僚からも見捨てられた興銀という印象を持ってしまう。

続 日本一の詐欺事件 - ままならねーことこのうえねー
尾上縫 の話。個人で数千億の破産を起こした巨額の詐欺事件、ここでも興銀は中心的存在で単なる個人に2000億を貸し出している。