8ビットや16ビットの機械が活躍していた時代。
ちょっと懐かしいものを手違いで掘り起こしてしまったので、それらについて思うままに書いてみます。
それは、X68000用の月刊ディスクマガジン、電脳倶楽部。
満開製作所という怪しい名前の会社が作っておりました。
X68000ユーザー向けにソフトバンクが発刊していた雑誌Oh!Xに電脳倶楽部の広告が載っており、
当時小中学生だった私は親にねだったり、なけなしのお年玉を崩して、
たまに定期購読したり、タケル(ソフト自販機)で買っていたものです。
タケルも当時は地元にはなかったため、わざわざ名古屋の大須まで買いに行ったものです。
中身も当時は貴重なものだったのですが(簡単に言えば、雑誌からソースリストを打ち込まなくてもゲームができる!)、印象的だったのは広告でした。日ペンの美子ちゃんのパロディの満開の電子ちゃんが面白かったんだよね。
さて、自分が初めて買ったのが90年3月の22号。起動して隣のトトロの音楽が流れたのは今でも覚えています。
内容は、主にユーザーの投稿で成り立っていました。ゲームや音楽、画像、ツールなど、雑誌では共有しづらいものも、ディスクなら可能です。新たなコミュニティの誕生でした。
自分が最後に買ったのは、おそらく94年の76号。このあたりで既に、私にとっての電脳倶楽部の必要性が大きく薄れていました。同人DMやディスクコピーサービスを知り、情報を手に入れる主役が他のメディアに移っていました。95年にはパソ通やらネットも始め、そこが情報のハブになりました。よって、その後はよく知らないのですが、なんと2000年の148号まで続いたようです。
2000年と言えば、WindowsMeが発売された年です。
CPUで言えばクロック競争の真っ只中、ギガヘルツを超える動作周波数のPentium4が発売された年です。
インターネットもテレホーダイで夜な夜なアクセスしていたのから、フレッツISDN等による常時接続へのスイッチが始まった年です。
それなのに、5インチフロッピーで1986年に発売された10MHzの機械向けのディスクマガジンをまだ発行していたのです(1993年発売の最高位機種でもMC68030 25MHz)。なんという執念でしょうか。(実際は最後のほうはCDROMの供給になったようですが、そもそもX68000にはFDDしかないんだよね...)
ということで、思い入れもあるし、その活動の系譜は日本史で言う会津の 白虎隊 のような味わいがあり、90年代パソコン史話新百選のひとつとして数えたいのであります(怒り新党の新三大○○のノリで)。
以下、いろいろ調べていたら面白かったのでメモ。
2chには結構裏話っぽいことが書いてあった。どこまで何が本当かは分かりませんが。
http:/
136 :ナイコンさん:04/07/07 08:37 祝一平の”祝”はりんごの品種である”祝”から取ったんだよ。 祝一平曰く「祝はもっとも美味しい食べ物」らしい。そうだったんだ!
祝一平氏はOh!MZのライターであり、満開製作所の創業者です。
文章は軽妙な語り口にして切れ味が鋭く、毒舌で相当世の中を茶化してまして、熱烈なファンも多かったです。嫌いなものはトコトン貶していましたから、嫌う人も多かったでしょう。
ちなみに僕が買ったほぼ最後の75号では、起動してのっけから
ですからね。政治ネタの毒も多かったですね。北朝鮮ネタがよくありました。
というかもっと危ないネタもあったしなあ。昔は大らかだったんだよねえ。
137 :ナイコンさん:04/07/07 18:27
ttp://slashdot.jp/comments.pl?sid=192913&cid=582898
TOWNSが出始めた時に、一般のパソコン雑誌で祝一平氏が私情だけに基づいたTowns批判の記事(つかTowns批判にかこつけたX68Kマンセーな記事)を書きまくっていて、
「あいつのせいでマニアの半分は逃げたよな」とTowns持ちだった私は苦虫噛みつぶしていたので、
彼の訃報を聞いた時に「人間、雑誌に悪口を軽々しく書くものではないな」と淡々と思いました(;´Д`)
--死して屍拾う者なし。
138 :ナイコンさん:04/07/07 20:23
つ~か、うんずが出始めの頃はほとんどの奴は批判的だったと思うが。
68と一緒でマニアだけでしょ、好感的だったのは。
日コン連の本はうんずマンセで68がかなり叩かれていたな。
139 :ナイコンさん:04/07/07 22:27
>>138
日コン連の山本隆雄はシャープのコンピュータ事業部出身だよ。
奴がシャープに入社した時はMZシリーズを出し始めたときで、CZ(X)シリーズはまだ無かった。
それを後発でしかも専門外のテレビ事業部がシャープのパソコンの顔になった為
奴としてはCZシリーズが面白くなかったんだろう。
実際、奴が辞めたのはX68000発表直後辺りだったし、
X68000をやたらと叩いていたしね。
140 :ナイコンさん:04/07/08 10:04
>>139
へ~、そんな事があったんだ。
まったく知らなかったよ。
当時は理由はよくワカランが
やたらと68を叩いてうんずを持ち上げていたから不思議に思っていたよ。
X68にはコピーユーザーが多いので、近いうちにソフトが一本で出なくなる
早めに他機種への乗り換えをおすすめします、なんて事も当たり前に書いてあったな。
あと、お約束のスプライト1000個の事も当然キッチリ載ってる。
うんず版D-RETURNの紹介記事は何度読んでもキテル。
141 :136&139:04/07/08 21:28
>>140
そのD-RETURNもX68版を出す事になった途端、
X68批判をしなくなった(というかかなり減らした)
で、D-RETURNが良いゲームか?売れたのか?評価は?
と言ったらもう散々(w
509 ナイコンさん 2007/10/18(木) 10:41:45
運図も最初は030搭載とか噂があったらしいが、どうせ社内で色々あってグデングデンにされて
出てきたのがお笑いパソコンなもんだから、68ユーザー(とソフトハウス)には、ほとんど誰にも相手にされなかった。
そんな68ユーザー(とソフトハウス)のウンズに対する嫌悪感(正確にはやっとまともなライバルが登場か!?と
期待し続けたが、結局68のライバルにすらなれなかったガッカリ感)を正直に書いてしまったのが祝だ。
あの記事を見たときは「わざわざ言わずともいいことを言ってしまったな」と今更感を感じたものだ。
祝一平氏を始め、80x86嫌いは多かったね。僕も当時はそれに影響されて嫌いだった。今考えれば本当にどうでもいいことですが。
Oh!Xも対立を煽る傾向にあったし、それはそれでネタにしていたんだと思う。
237 ナイコンさん 2005/06/26(日) 09:56:59 入社したて(92年)の春の或る日。「電脳倶楽部の今後のビジョンは?」と いう(ような内容の)質問を私がなにげなくぶつけたところ、祝一平曰く「ない」 と言った事を覚えている。私がどうしてその時点で自分の進退を考えなかったか はすでに記憶の外だが…。 彼はまっとうなコミュニケーションすら、スタッフとの間で成立させられなかっ た。黒といったら、それが常識的に考えて白であろうとも、論旨が曲がろうが、 論理が破綻しようが、やめなかった。必要な人材流出が後を絶たなかったのも必 然的帰結だろう。 シャープ撤退後「コンピューティングがつまらない状況を変える新しいマシン を」考えるという段階で、それがどうつまらなく、どう変えていこうとするのか、 どうユーザーに訴えるのか、彼は我々スタッフにすら満足に説明する事ができな かった。 彼がまったく仕事をしなかった96年が過ぎ、97年初、入院。その直前、彼 が給料を支給しようとしたときに「給料欲しい人おいで」とのたまったのは生涯 忘れないだろう(通常、給与は振込になるのだが、さる経営的事情によりそうい うシーンが出来上がってしまった)。いったい彼は誰に食べさせてもらっている のか、我々はだれに食べさせてもらっているのか(もちろんユーザーにである)、 周りのことを顧みる事のない彼の様子として書き止めておこう。 あしかけ3年に渡って、現スタッフが祝一平抜きの満開製作所を維持してきた のは、ひとえに満開製作所を応援してくれるユーザーがいて、その期待に応える モノを出す、それ以外の理由はなかった。実際、060turbo や激電など、例を挙 げればご理解いただけると思う。 とにかく、彼の事はみんなできれいさっぱり忘れましょう。 238 ナイコンさん 2005/06/26(日) 21:05:27 インサイドを知らない一般読者には、それでも彼は神だったんだよ。 239 ナイコンさん 2005/06/26(日) 22:49:47 ここは、祝がいなければ生きられなかった寄生虫が、 本体の死後に、屍まで利用してやろうというスレですか?外から見たカリスマ的存在ほど、内から見るとトンデモな人ってよくあること。
そして、そのトンデモがいるからこそ、その組織が成り立っていたりする。
世の中って難しい。
299 ナイコンさん 2005/09/25(日) 13:00:10 もう、16年も経つんだねぇ。 Oh!Xの電くら広告を見付けてドキドキ、ワクワクしながらお金振り込 んだの。 自分の人生で、あの感覚を味わうことはもう無いと思う。 その礎を築いたって事で満開のスタッフのことは忘れても、祝さんは忘れ られない。 彼が生きていれば、満開も存続していたかもしれないし。 300 ナイコンさん 2005/09/25(日) 13:57:43 >彼が生きていれば、満開も存続していたかもしれないし。 それは無理今は2013年だから24年か。時の流れとは残酷です。
301 ナイコンさん 2005/09/26(月) 03:16:16 法人としての「満開製作所」は何らかの形で残っていた“可能性”はあるね。 仮に残っていたとしても、どんな風になっているのか…想像つかないけど。 個人的には存続してなくてもよかったからせめてもうちょっと綺麗に終われていたらなぁ…とは思う。 302 ナイコンさん 2005/09/26(月) 04:06:35 無能なスタッフの愚痴は聞きたくなかったな。 文句があるなら、一人で勝手にやりゃ良かったんだよw 303 ナイコンさん 2005/09/26(月) 06:17:27 まぁ俗に言う「優秀な野球打者が監督になっても~」ってやつだわな 304 ナイコンさん 2005/09/26(月) 13:12:53 「優秀な野球打者」だったかどうかはさておいてだわな 305 ナイコンさん 2005/09/26(月) 15:19:38 バットに当てさえすればホームラン、それ以外は三振のホームランバッターと ホームランは一切期待できないが、打席に立てば敬遠以外は必ず安打の ヒットメーカーでは、後者の方が経営には向いているんだ 308 ナイコンさん 2005/09/29(木) 19:33:36 まぁ祝氏は経営者向きではなかったな既に90年代前半でパソ通が盛んになって、X68の狭いコミュニティのハブの多くはそこに移ってしまったし、ディスクマガジンという形態自体が詰んでる状態だったと思う。同人DMも95年には多くが解散していたような。
そもそもX68自体が94年頃にはゲームも出なくなっていたし、商業的には詰んでた。
普通に経営判断すれば、そのあたりから撤退戦をやるべきだった。
けど、それをやらずに徹底抗戦の道を選んだ。
経営判断としては結果的に駄目すぎるけど、こういうのって難しいですからね。
正解なんて後付しかない。
464 ナイコンさん 2007/03/18(日) 14:09:02 >>462 >>463 なかなか上手くまとめてありますね。祝氏の生年はいつなんでしょうか? 466 ナイコンさん 2007/04/08(日) 14:25:03 >>464 ネット上でざっと調べた限りでは確かに不明ですね。 名簿図書館とかで東大の卒業名簿でも調べたら載ってるのかも? 467 ナイコンさん 2007/04/08(日) 15:27:48 >>466 有田隆也氏と同期くらいということは1960年生まれ? ttp://anzenmon.jp/page/164560/今も存命でしたら50代。
557 ナイコンさん 2009/09/11(金) 09:46:37
電クラの創刊号にはこんなことが書いてある。
> さて、満開製作所はできたての、湯気の立ってる零細企業なわけ
>だが、前金制の通信販売という(卑怯な?)システムであるから、
>堅実を心がければ、たぶん、ちゃんとやっていけるであろう。10
>0%自己資金であるし、手形や不良在庫なんかとは無縁でいられる
>予定であるから、理論的(?)には倒産ということはないであろう、
>などと呑気なことを考えている(逆読みすれば、タカが知れている
>ということにもなるな)。本当はこんな気弱なことを言っちゃいけ
>ないんだろうが、最悪の場合でも1年は持つだろうし(だからその
>頃になったら購読申し込みは少し慎重になった方がいい。けけけ)、
>本当にアカンということになったら、料金を返金すれば世間と業界
>には顔向けはできるだろう。
最後まで100%自己資金のままだったら夜逃げで終わらずに済んだのかもね。
そのかわり会社の終了も確実に数年は早まっていただろうけど。
夜逃げだったのか。579 ナイコンさん 2011/04/02(土) 22:29:09.59
シュタインズ・ゲートってアニメにペケロッパーが登場すっぞ!
それ聞いて見た私。621 ナイコンさん 2012/08/16(木) 14:46:03.50
私は誰の挑戦でも受ける! は
ネタの大元はアントニオ猪木で、
祝一平のはたぶん「1・2の三四郎」から。
X68000初代同梱のグラディウス開発者の
「1ドットでも違っていたら腹を切る」てのも
同じく「1・2の三四郎」のセリフから。祝一平とは別人だけど。
まああの当時はちょっと流行ってたんだね。> 三四郎
そうだったのか。他にも見つかったリンクを貼り付けときます。
青空文庫にも影響を与えていたようだ。
http:/
我が青春のX68000
http:/
そういえば、電脳倶楽部にはDSHELLと呼ばれたブラウザが搭載されていました。今ではブラウザというとWEBブラウザになりますが、もちろん当時はHTMLなどというものはなかったので独自の表記でした。リンクはもちろん絵も張り込めたり、文字の大きさを変えれたり。操作方法は、左クリックで下スクロール、右クリックで上スクロール、両クリックで戻る、というものでした。ホイールなんて無かったしね。
昔のディスクマガジンのブラウザはどれも(同人ディスクマガジンも多く出ていて、そこでも独自のブラウザが開発されていた)独自の進化を遂げていて面白かったなあ。CURECとか兎団とか、いろいろ同人DMはあったけど、ああいうのって誰も保存してないんでしょうかね。僕は大昔にMO捨てちゃったしなあ。
x68000 電脳倶楽部 第65号 南風一曲分の動画
http://www.youtube.com/watch?v=j8GPYLxrEoA
まさかの動画を発見。
この号は見たことない。
X68000 : 電脳倶楽部Vol.22
http:/
なんとこんなサイトが。
X68000 Database
http:/
こんなのもあった。
しかし市販のDMしかやはりないか。
電脳倶楽部 VOL.24
http:/
ここにもアーカイブが。
●X68000とSX-Window
http:/
懐かしのカタログ等
http:/
http:/
「郵便配達と夜の国」
http:/
電脳倶楽部で活躍されていた絵師さんについて。
月刊電脳倶楽部 1993年11月号 Vol.66
http:/
なんとまだ売っております。
MC68000命令 & CCR 変化表(第1.3版)
http:/
昔はこういう形でフリーソフトやデータが配布されていたものです。