「ほんと君はイーガンが好きだな」
と会社でコードを書いている時に言われた。
「イーガン(というかディアスポラ)は究極ですからね。もう行き着くところまで行って、あれ以上のSFは無いですよ」
「(評価は一軸じゃないんだから)方向性が違うものだったら他にもあるんじゃないの?××とか○○とか、学生の頃に読んだロバート・フォワードの竜の卵にはこんな世界もあるのかと感動したなー」
「まあ、そりゃそうかもしれないですが。竜の卵ですか、読んだことないですね」
とか話しつつ、その場でポチってみた。
1980年発刊で相当に古い。35年前。けど今読んでも普通に面白かった。
お話はざっくり言うと、中性子星で発生した生命とその文明の発達、そして人間との邂逅。
ディアスポラでメタなレベルで生命や意識といったシステムを描き切ってしまったので、計算機上だろうが中性子だろうが藻だろうがガイアだろうが人間社会という組織だろうが、演算能力に相当する何かと状態を保持できるシステムがあるなら、その上に世界や生命や意識が存在しても驚きはしない。
未知の知的生命体との遭遇というのもよくあるネタ。
それでも面白いと感じたのは設定の巧みさと、先が読みたくなるようなストーリーの組み立てによるものだろう。
- 設定
- 動作速度が違いすぎる。地球上の生命はシステムに分子間の化学反応が採用されているが、竜の卵と呼ばれる中性子星では核力を使った核化合物の反応で生命が構築されるため、反応速度が地球の100万倍。つまり、地球人と比べ100万倍速で動いている。人間がうたた寝している間に、ローマ帝国の興亡に相当する歴史が中性子星上で起きている
- 竜の卵は表面重力670億G、温度は8700度
- 支配的な知的生物であるチーラは全長3mmで平べったく、上記の環境でしか生きれない。逆に人間はそんな環境では即死である。
- ストーリー
- 前半人類の調査船と中性子星上で別個にストーリーが展開していくが、様々な条件が違いすぎるため、一体どうやって交点が生まれるのか予想がつかない
- その交点からチーラ側の文明がダイナミックに変化していく様子はまるでシムアースか何かの箱庭ゲーム
- その後もどうやりとりするのか、そして最後に人類とチーラは出逢えるのか、出逢ってどうなるのか、これも読んでいて予想がつかないが最後は…(イーガンなら両者ともソフトウェア上に転写して終了ですがw)
前半は「ああ、こういう生命が生まれて文明が勃興する話ね、あるあるー」と思いつつ読んでいたものの、中盤から「これはどう展開して収まりをつけるんだ?」というミステリーが生まれ、ぐいぐい引きこまれていくわけです。
古い小説だから、空想科学としての部分はもう陳腐化してるけど(それでも当時はかなりハードだったんでしょうが)、やっぱ小説ってお話なわけだからそこさえ面白ければ問題ないんだな。
対してディアスポラは空想科学としての純度が高過ぎて、もはや話が面白いのかよく分からない世界に到達している印象だったとゆーか、なんか別世界の物理の歴史とかニュートンを読んでいるような面白さというか。その純度の高い空想科学もあと20年もしたら有りがちな設定だけど話は面白いね、と竜の卵と似たような評価になるのかもしれませんな。そう考えるとハードSFの定義って時代によって変わるのかも。
余談ですが、ある意味最強のハードSFはスピリチュアル本かもしれませんね。
地球の人びとへ 私は、あなた方がヤハウェと呼ぶ者である。から始まるこの本とか、最高にハードじゃないですか(別の意味で)。空想が行き過ぎていて、空想科学ですら追いつくのにあと数十年かかりそうですし、ディアスポラより読むのが困難そうです。
そういえば、自分は昔イーガンを読んだときって何を思ったんだっけ、と検索したら読み始めたの2006年だったぽい。社会人になってからか!普通に遅かった。
http:/
しかも当時は
結局全ては「NANDとFFの塊に魂は宿るか」って問題なんだよな.普通に考えたら宿らねえよ!って感じですけどね.とか書いてて、今読んだら「なんで『普通に考えたら宿らねえよ!』になるんだよ、馬鹿か!」と思いました。が、もしかすると宿らないのかもしれません。結局は実証しない限りは本当は分かんない。もしかすると数十年後か数百年後か数千年後、科学技術が発達して地球上の生命の神秘が完全に解かれたとしても、人間には魂を作り出せない、いや作り出す権限が与えられていないことを知るだけなのかもしれません(そもそも魂の定義ってなんだって話がありますが)。だとしたら、それはそれで究極のハードSFだよなあ。なんて思うわけです。