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*田原総一朗 - なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか

book 20150812 113116
これは面白かったなあ。
田原総一朗は左翼寄りの人と思っていたので、こういう右翼的な人に焦点を当てた本を書いているとは思わなかった。

右翼の元祖と言われ、各方面に強力な人脈と影響力を持ち、GHQに気違いじみた一派として解体させられた 玄洋社 のボス 頭山満
23歳にして大著「国体論及び純正社会主義」を記し、その後唱えた「国家改造論」が2・26事件を起こしたとして死刑にされた 北一輝
「米英東亜侵略史」等を記し、アジア解放のための対米開戦の理論的支柱を成したとされる 大川周明

こういった人たちの出生から育った環境、そこから芽生える思想や行動を紐解く、するとそれが時代の大きな流れの一つのピースとして見えてくる。


例えば、頭山満は20代前半の頃は、とにかく明治政府を倒すことを考えており、蹶起や要人の暗殺を常に考えていた当時よくある過激派だった。神風連の乱など、士族の乱が続発していた時代である。明治政府が長州(山口県)を主とする一部に独占されている上に、様々な法律で士族としての既得権益が奪われた不満が鬱積していたのだろう。頭山ら福岡人からすれば、隣の長州人のみが特権を持って勝手に日本を食い物にしているように見えてもおかしくない。

しかし、西南戦争を負け武力で明治政府を倒すことは不可能だ、と考えた板垣退助に言論で戦うように諭されることで民権論者へと変わっていく。
ところが自由民権運動が功を奏し政党政治が始まると、外国との不平等条約改正、そしてアジアを植民地から解放するアジア主義へと考えは昇華していく。

同時に頭山は民権論から国権論にシフトしている。理由としては、支援していた朝鮮の革命が清國に潰されたこと、さらに清國の軍艦「定遠」「鎮遠」による 長崎事件 等があげられる。これで日本の国際社会における地位の弱さが鮮明になり、民権以前にその前提となる国家自体に他国と対等に渡り合える力が必要と考えたのだろう。新聞を発行している玄洋社は清への敵対心を煽りまくり、これが日清・日露・太平洋戦争と戦争の連鎖の一つの発端となる。

その後、日本は運良く日露戦争に勝った。日本は有色人種が初めて白人の列強を倒したということで、世界中の列強に支配されていた民族の希望の星となる。そして、孫文を始め、中国、インド、アジア各地から近代革命や植民地解放を目指す革命家がアジア主義を唱えていた頭山らを頼って日本に亡命してくるのである。ただ、明治政府は日英同盟を結んでいたため、英国の要請でそういった運動家を捕まえる立場にあった。どうでもいいけど、インドの革命家の一人、 ラース・ビハーリー・ボース は新宿の中村屋に匿われ、それがインドカレーの中村屋になったというのが面白い。


そして、頭山を含めこれらの人たちは意外なことに対中戦争や対米戦争に反対しており、必死に和平工作を行っていた。しかしながら、その思想の上辺だけが大東亜共栄圏に名前を変えて、侵略戦争の大義名分として利用されていくのはなんとも皮肉。


あと改めて思うのは、戦前の命の軽さか。
維新後も国内でしょっちゅう暴動やら内乱やらテロ(暗殺)が起きて人が死にまくっている。
理想のためなら相手を殺しても、自分の命を捨てても良い、と考える人が多すぎる。若い革命家はみんな死に場所を探しているくらいの勢い。今の時代に生きている人間からすればドン引きの凄まじい時代だね。