coding, photo, plant and demo

*堺屋太一が定義した経済学上の右翼左翼

book 20150830 172943
堺屋太一の時代末(上)を読んだ。
以前堺屋太一の豊臣秀吉を読んだときは、経済の専門家が歴史小説を書くとこんなにも面白いのか、と驚いたものだったけど、この本も同様の感想。

特に戦前の右翼左翼の定義が面白い (若干強引だけど)。
右翼も左翼も「貧富の差を解消する=貧しい人を救済する」という同一の目的から発生している。
その方法論が違うだけだという。

左翼は、財産の私有を認めないことにより、所得の平準化を図る。
右翼は、私有財産はある程度認めるが、消費を均質化する。

キャッチフレーズは、前者は「資本家は敵だ」、後者は「贅沢は敵だ」となる。

左翼(共産主義)は非常に理論的である。所有権自体は万国共通の原始的な権利であり、それを制限するというのは非常に明快。それ故に世界中に伝搬し、あらゆる国で共産革命を目指す勢力が発生した。

対して、右翼は非常に感覚的。消費を均質化するためには、皆で共通の価値観を共有する必要がある。しかし価値観というものは極めて主観的なものであり、理論的に統一することはできない。そこで国粋主義や民族主義と結びつく。ドイツならゲルマン民族=最高に優秀な民族、日本は日本国民=(特にネタがないので)万世一系の天皇の子、と為政者に都合の良い理論を作り価値観を統一する。
すると、その価値観に基づいた行動指針、つまり消費が定まる。金持ちの子だからといって特別な教育を受けるのではなく、金持ちも貧乏もみんな平等に国民学校に通って教育勅語を読みましょう、国民服を着ましょう、等と消費が均質化する。あくまでその民族に閉じた話なので、世界には広まらない点が左翼と異なる。

このように方法論は違うが、行き着く先は同じである。
両者とも強力な中央政府がなければ成り立たないため、全体主義である。
左翼は個人の所有権と企業の生産手段を取り上げ、国が管理する必要がある。
右翼は消費や価値観の統一のために、教育や生産を国が管理する必要がある。

左翼は共産党の求心力を保つため、共産党が素晴らしいという価値観の植え付けが必要になり、右翼化する(経済的に豊かになればこのような洗脳も必要もなかったかもしれないが、現実の共産主義は欠陥だらけで必然的に経済が崩壊するため)。
右翼は消費や価値観の統一が進めば所有権も形骸化し、左翼化する。

事実、戦前の北一輝や大川周明といった右翼の理論家たちの出発点は左翼であったりする(堺屋太一に言わせれば、戦前の日本の右翼の理論というのは、同時代のマルクスやケインズと比べれば理論と呼べるようなものではなく、素人の政策談義レベルだそうだが)。両者は似たもの同士なのだった。

経済的な視点で、現在の右と左が何を目指しているのかを考えてみるのも面白いかも。(個人的には経済政策ではどの党も差がなく、別の要素(外交等)でしか左右の色が付かない気もする)


あともう一つ面白いのは、民主主義は非常にコストが掛かるシステムということを、国民が理解していないという指摘。
議員になるためには立候補し、自分の名前と主張を有権者に周知させ、その上で人よりも多い票を獲得し無くてはならない。それだけでも膨大なコストが掛かるが、議員になってからも、議会において、あるいは世論において、自分の主張を周知させることに大変なコストがかかる。そして議論して合意を形成するには時間もかかるし、最終的に廃案になることもある。つまるところ、膨大な時間と金を消費するのが民主主義の宿命。故に議会民主主義は支持者からの援助が不可欠となる。それは支援者の労働であったり金銭である。支援者も自分の主張を代弁してもらう、あるいは他者の主張を制限するため、議員を議会に送り出すためにコストを払う必要がある。政治献金は民主主義を維持するための必要悪だと言う。

しかし、政治献金も含めた議員の金銭疑義に国民は敏感すぎる傾向がある。そのコストを許容できない結果、国民は政治家の金の動きにヒステリックになり代替としてよりトンデモな軍部を許容して悲惨な事になったのが戦前の日本。そりゃ聖人君子が誰もが納得する政策を独裁的に決めるのが最も効率が良い政治だけど、そんなのは妄想だからね。国民全員が洗脳されて価値観が統一されていれば可能かもしれないけど。

チャーチルの「実際のところ、民主政治は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが」というのは正にそうだと思う。
とはいえこれだけ技術が発達したのなら、もっと低コストに金権主義を排して民主主義って運営できるのでは?と思うけど。