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*汚職・贈収賄―その捜査の実態

book 20140601 234547


読んだ背景

まずこの本を読んだ動機は、酒のツマミとして聞いた、贈賄の参考人として警察(検察)で取り調べを受けたという話が面白かったため。事前に検察はかなりの情報を集めているので、例えばいつ誰がどこでどれだけお金を下ろしたかも知っており「誰々さん(政治家や官僚)と飲みに行く時は、いつも沢山お金を下ろしますね。こんなに必要ですか?」とか、取り調べになるともう金の動きは洗いざらい追われて、かなりの恐怖らしい。すげーな検察、これは贈収賄について調べないと!と思い酔っ払った勢いでamazonで購入(中古で)。

著者について

作者の河上和雄氏は日テレで日曜夕方にやっているバンキシャでコメンテータをしているので、知っている人も多いはず。相当頭のキレる人だな、と思っていたら経歴は東大→ハーバード→検事→東京地検特捜部(田中角栄のロッキード事件等を担当)→最高検検事→最高検公判部長、と最早素人にはよく分からないけど、エリート中のエリートなのは間違いない。

最近は激ヤセでちょっと大丈夫か?と話題にもなっていた。最近は見かけない気がするが気のせいか?

真相報道バンキシャの河上和雄さん激やせ
http://blog.livedoor.jp/sportsos/archives/1921816.html

本の構成

肝心の中身ですが、前半4割が贈収賄の歴史から現代の法律、次の4割が実際の公判のケーススタディ、残りが政治と検察の力関係や今後の検察の在り方となる。

以下、幾つか気になった部分の感想と調べもの。

贈収賄の歴史

1500年ほど前の日本最古の収賄罪と言われる事件が日本書紀に載っているが、これが結構衝撃的。当時日本が朝鮮半島で経営していた任那という県があった。当時の権力者大伴金村と任那の司令官が百済から賄賂を貰い、百済の要請通りその任那の4県を百済に割譲したらしい。今で言えば総理大臣と沖縄県知事が中国から賄賂を貰って、尖閣諸島を含め沖縄を中国へ割譲するようなイメージか。

さすがに現代においてそこまで著しく国益が損なわれる汚職が行われることはないだろう、と思いたいが、こういった事例の存在を挙げられると政治の腐敗が如何に恐ろしいものか分かる。

河上氏は自身の体験を踏まえ、完全に検察のポジショントークではあるが、こう述べている。
政治家の犯罪、とりわけ汚職を追求していると、人間が権力を求める存在であること、権力をもつと倫理観が麻痺しがちになること、麻痺した倫理観を持った権力者は絶対的に腐敗するという現実に直面して、絶望的になる。
だが、それが人間の本性なのだろう。そうだとすれば、人間の本性を刑罰によって変えることは不可能といわなければならないから、倫理観の麻痺した人間を常に権力から排除することだけが、汚職をなくす有力な手段ではないのか。

ちなみに大伴金村はその後物部氏に任那割譲の失策について問責され、権力を失うことになったとあるが、権力が大伴氏から物部氏に移りゆく原因は様々な解釈があるようで古代日本史好きの興味の対象となっているようだ。

大伴金村失脚の真相:9月勉強会④
http://blogs.yahoo.co.jp/bonnou/32241385.html
任那割譲事件は、欽明元年を『日本紀』の540年とした場合、すでに28年も前のことであり、その間、継体・安閑・宣化朝で大きな権勢を誇ったように書かれているし、その件で責任を問われたことはない。
 それが欽明即位のとたん、昔の話を持ち出されて失脚するというの不審である。
 実は、欽明即位の途端に失脚というのは、やはり物部氏との権力闘争に敗れ物部が推す欽明が即位した時点で、金村の政治生命の終わりとなったのではないか!

贈収賄の法律

日本は昔から贈収賄の文化が根付いており、特に江戸時代は凄かったようだ。お中元・お歳暮などの文化も江戸時代に生まれたもので、それが脈々と続いているのは凄いことですな。贈収賄を禁止する法律もあったようだけど、全く機能していなかったとのこと。

ただ本書には、
徳川時代になっても、柳沢吉保や田沼意次といった収賄の元凶のような人物が公然と賄賂を取って政治をしていた。また、「白河の清きに魚の住みかねて元の濁りの田沼恋しき」などと狂歌で冷やかされ、清廉潔白の政治家のようにいわれる松平定信でさえ、老中になるために膨大な金品を田沼に贈ったとされる。
と書いてあるが、最近の研究だと田沼意次が収賄政治を行っていたというのは田沼に限ったことではなく、江戸時代では一般的であったとされているようだ。

田沼意次はどうして賄賂政治を行ったのですか?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2966752.html
付け届けは大名のレベルでも当たり前のことで、田沼時代に限ったことではありません。田沼意次が非常識な「付け届け」を諸方面に求めて政治を曲げ、蓄財に励んでいたとする客観的な証拠はありません。田沼意次が失脚したのは、「賄賂政治を行ったか否か」とはまったく別の理由によるものです。

改革に燃えた幕臣経済官僚の夢(2)
http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/tanuma.html#2
それは、この改革は確かに田沼意次が中心になり、意次がいたからこそ進んだ改革なのだが、意次は独裁者でも賄賂政治でもなかった。何よりも意次の人柄のせいか、多くの協力者・ブレーンがいたのが特徴だからだ。 
 足軽の小倅だった田沼意次がその実力を認められて、御側用人として、老中として多くの改革を進める。意次の実力とその協力者たちの知恵があれば賄賂など関係なかった。後に反田沼反動派が流した風説に惑わされることなく「田沼意次と、その協力者たち」の取り組んだ改革を振り返ってみよう。 
賄賂政治というのは松平定信が田沼政治を否定するために流布した風説らしい。人のうわさというかマスコミは怖いね。勿論、その真偽も今となっては推定でしかないのだろうが、結局庶民は何も信じられないということだろうか。

田沼意次は名政治家?
http://www.mitsumori-center.co.jp/seiji.htm
このように彼の展開した積極政策は、当時の国民生活を豊かにし、 後々の為にも大いに貢献していることが分かります。お金は命の次に大切なもの、 その2番目に大切なものを差し出してまで相談にくる商人を忠義な者と考え、様々な取り計らいをしたことが、 「賄賂政治家」と呼ばれてしまいましたが、もしかすると、陰で悔し涙を流しているのではないのでしょうか。
田沼意次と田中角栄の共通点。ダーティーな部分もあったが、時代に必要不可欠な先進的な政治家だったと評価している。建築屋さんのサイトだから、そりゃ田中角栄が嫌いなわけないんだけど、清も濁も行き過ぎるとダメというのは実感する。程々のバランスが大事なのだと思う。


そういえば、以前読んでた 池波正太郎の剣客商売 でも、秋山小兵衛の強力なパトロンとして出てくる田沼意次。歴史じゃ悪徳政治家と習った気がするけど、小説では良い人扱いなのでそういう面もあったのか?と思ってたら普通に悪い人じゃなかったのが正解ってことか。池波正太郎先生は執筆当時からそのことが分かっていたんだろうか。


あと驚いたのが明治維新で法律なども近代化されたということになっているけど、当初は日本より進んでいた清国の法律を引き写しただけだったらしい(新律綱領など)。明治では日清戦争(明治27年)で日本が清を完全に打ち負かすわけで、清は遅れた国というイメージがあったのだけど、維新当時は清の方が遥かに先進国だったわけ。というか、日本が中国に対して先進的であったのはここ100年程度の話で、それ以前の数千年は常に中国のほうが圧倒的に先進的だったわけだから、中国の歴史的にみれば日本なんてここ最近ヨーロッパの真似して一山当てただけの成り上がりの田舎者なのかな。

もっともその清もヨーロッパに比べれば法整備は遥かに遅れていたので、明治政府も明治13年にフランス等の法律を元に近代的な旧刑法を制定している。自分が遅れていることをはっきりと認識して、恥も外聞もなく先進国の仕組みや技術を貪欲に取り組んでいく向上心の塊のような時代だったからこそ、当時の日本は強くなれたんだろうね。

企業間における贈賄

法律で定められた贈収賄は当たり前だが、公務員あるいはそれに準ずる者に対して有効であり、企業間や個人間には関係ない。例えば、部品メーカーが大手メーカーの幹部に対して接待して受注を獲得することは収賄にはならない(ただし、株式会社の取締役の場合は株主に対する特別背任罪になる可能性がある点に注意)。携帯屋が契約してくれた人にキャッシュバックしようが、法律的に問題はない。

ただ、企業の中でもそういった規律が無ければ、組織は腐っていく。例えば、先のように企業幹部が賄賂を受け、会社の利益に反する契約を結ぶことが常態化したらどうか。そんなことが横行すればその会社は真面目な会社との競争に負けいずれ潰れるはずである。国も企業も母集団が違うだけで組織であり、同じ問題を内部で抱えうるわけで、企業はどうやってそういった企業にとっての悪を防ぐのか、つまり企業内検察のようなものは存在するのか、といったことにちょっと興味が湧いた。湧いただけで本書とは関係ないことですが。

ゼネコン汚職に関する公判のケーススタディ

ここは正直全てを理解して読むのは辛い。

アマゾンの書評でも
贈収賄罪に関しての刑法の条文の概説から始まって、捜査→公判までの流れの概観など、一般の人が読んでも本当に役に立つのかという内容が200ページあまりにわたって展開されています。
しかも、そのうち100ページは中村喜四郎代議士の絡んだゼネコン汚職の判決文が占めており、こんなのをまともに読めるのは大学の法学部を出ていてもそうはいないと思います。
と書かれており、確かに僕も流し読みで済ませた。個人的な感想は以下。

  • 素人目には証拠が揃っていて詰んでいるように見える状態でも、政治家はあの手この手で尋常ではない悪あがきをする
    • 例えば、金銭の授受を認める事態になっても、そこに賄賂性はない(業界団体からの請託のない政治献金である)という主張をする
    • 疑わしきは罰せず(精密司法)のため、屁理屈でもその可能性を検察が潰せなければ有罪に出来ないらしい
  • 裁判が長すぎる
    • この例では有罪確定まで起訴から10年掛かっている。検察、裁判所、政治家のエネルギーをそこまで使って精密司法を貫く経済的意義は本当にあるのだろうか?
    • 自分が検察官や裁判官だったら、自分の人生の10年をそこに費やすのは結構耐え難いものがあるよな…実際に忙しいのは1年くらいなんだろうけど

しかし 中村喜四郎 先生は凄いよ、有罪判決が出て塀の中に一度入っているのに、出所してからまた当選し続けて今も現役の衆議院議員ですからね。むしろ一度ムショに入ったことによって箔が付いているのかもしれない(それじゃヤクザやないか)。

政治と検察の力関係

まず検察そのものが、戦前戦中の検察の花形は 思想検事 だったらしい。思想検事とは、治安維持を目的に悪名高き特高警察と両輪を成していた思想弾圧組織。基本的にはGHQに断罪されているのだけど、それがそのまま戦後の公安になったという話もある。下記の本でも読んでみますか。


それはさておき、戦後、東京地検特捜部が作られたのは隠退蔵物資の摘発が目的だったようだ。その目的が変容して、財政界の不正に挑むようになったらしい。それがGHQの占領政策と一致していたとのこと。それで、造船疑獄やら昭和電工事件やら財政界の骨幹に勇ましく検察はメスを入れていく。

しかしこのあたりのデカイ山に日本興業銀行が絡みまくってるのが凄いな。前、 高杉良の日本興業銀行を読んだとき に思ったんだけど、日本は一度占領されて政府や行政組織の天辺にGHQが居た時代があったわけで、占領終了後もアメリカが隠然たる権力を持っていたんだよなあ。ロッキード事件がアメリカの陰謀という説があるのも解る気がする。事実1955年に自由民主党という強力な保守政権が誕生してからは、俗に言う55年体制という圧倒的な政治力の前に検察は政治家に対して弱腰になっていた。それなのに歴代の総理の中でも圧倒的な力と支持を誇っていた田中角栄をなぜ起訴に踏み込めたのか?少なくとも後見人にアメリカがいたんだろ、と思ってしまう。実際、ロッキード後も検察は政治家を起訴できておらず、あれだけ騒いだリクルート事件などでも贈賄側を逮捕するに留まっている。本書では、田中角栄が有罪後も田中派は政治力を拡大し、検察を指揮監督している法務大臣に対しても隠然たる力を持っていたため、といった感じで説明しているが政治家に左右されてたら検察の意味ないだろ、とツッコミを入れたくなる。

検察が再び機能しだすのは田中派→竹下派(経世会)と続いた盤石の55年体制に綻びが見え始めてから。政界のドン金丸信を起訴してみたりするが、まだ弱腰で20万の略式声優のみでほぼ成果なし。その後自民党が分裂し、政治が弱体化して一気に先のゼネコン汚職の中村喜四郎や鈴木宗男や辻本清美など現職国会議員を逮捕・起訴出来るようになってくる。

現在、再び自民党が多少勢いを取り戻しているが、検察は政治力に左右されず川が濁り過ぎないように調整して頂きたいと願うばかりだ。

最後に

なんとも堅苦しい話になってしまったので、最後に本書とそれには一切興味を示さない(当たり前だ)、眠そうな猫とのツーショットでもどうぞ。猫の世界には汚職以前に組織すらないから平和なもんですな。